道程

「この遠い道程のため」

人生の節目や岐路に立つと、この詩に初めて出会った時、自分の脳裏に思い描いた情景がフラッシュバックするのは、きっと僕だけではあるまい。

この詩を初めて知ったのは、ご多分に漏れず中学時代の国語の授業だ。
教科書に実際に載っていたのは同・高村光太郎氏の「レモン哀歌」だったと記憶しているから、そこから派生した学習の一環の中であったのだろう。

先生に指名され、自分が朗読させられたことも克明に覚えている。
僕らは思春期真っ盛り。「道程」の同音異義語を想像して、僕はタイトルを発声するのにも多少の勇気が要った。
「ドウテイだってよーっ」と盛大に茶化す者もいたし、ばつが悪そうに照れ笑いしている者もいた。先生の「静かに!」という怒声も飛んだ。
しかし、詩を読み進むにつれ、教室は静まり返った。

一見、楽しそうに見える学校生活ではあったが、皆きっと将来に漠然とした不安を感じている年頃であったろう。

たった10行にも満たない詩が、僕らの心に、何か覚悟のようなものを刻んだ。
そんな教室内のシンとした空気を感じた。

その時の僕に浮かび上がった情景は、富士の樹海にも似た(行ったことはないが)、鬱蒼とした道なき道。時おり茨の棘も視認できるような。

表面では笑いながらも、これといった将来の夢も持てず、ただ焦り、迷い、悩み、軋んでいた日々。
「若い子はいいわねー、これから何でもできて」
と大人に言われても、その「何でもできる」が足枷となって、一歩も踏み出せない時だった。

そして今もまだ、着実な一歩を踏み出せるようになった、とは言い難い。
でも、踠けるようになった。
踠くことを、格好悪いなどと理由をつけて逃げることをしなくなった。
道程の情景は鬱蒼としたままだが、棘はいつしか消え、僅かだが目的地の光が挿してきたように感じる。

棘が消えたおかげか、このブログでも二度ほど登場した、件の「金持ちのバカ息子」と二人で、司法書士・行政書士事務所を開業することになった。
いやぁ、人生はわからない。

お互い若い頃はバリケードを張っていたのだろう。彼が再チャレンジの末、晴れて行政書士となった時に、声をかけてみた。
腹を割って話してみたら、無二の友となったというわけだ。
そしてお互いキャリアを積みながら、二人揃って司法書士試験にも合格し、このたび事務所開業の運びとなった。
いやぁ、人生はおもしろい。

そしてこれからも、まだまだ道半ばの、遠い遠い道程のため、踠きながら行く先を拓いていこうと思う。